表紙>はじめに>講演内容>質疑応答>反響に対して>資料請求先 【スライド 35/45】 関係原理の混乱とSF?
つまりこういうことです。私たちは、置かれている社会状況や環境、あるいはこれまでの経験によって、「因果関係の原理を説明しているかどうか」を判断する基準や、どの関係原理に重きを置いて、どれを軽視するかという判断基準が変化する。ただし僕から見るとSFファンはある程度一定の原理基準を共有しているように思える。 『パラサイト・イヴ』が顕著であったように、関係性の原理基準に抵触した場合、「SFだと思ったらホラーだった」「これはSFではない」と感じて齟齬が生じる。これは読み始めの段階で、読者が因果関係の原理基準を推測し間違えることが原因です。これはいわゆる「オレ的基準」であって、絶対的な評価ではない。あくまでも相対的なものなんです。ところがこういう言動は、端から見ると絶対的な評価をしていると思われがちなんですね。SFファンじゃない人が、SFファンの「これはSFではない」という発言を聞くとすごく怖く感じると思います。なにしろ言葉だけ聞くとこれは全否定表現ですから、相対性も何もあったものではない。日常生活で、これほど強い否定表現はなかなかお目にかかれません。これはディスコミュニケーションの大きな原因になります。 では、なぜ読書中に誤った推測をしてしまうのでしょうか。これはそれこそ経験の結果なんです。科学者が出てきたり、研究室が出てきたりするSFを読み慣れていたために、物語の原理基準をSFだと錯覚してしまう。つまり僕たちは、ある傾向の舞台設定や題材から特定の関係原理のパターンを想起してしまいやすい。SFファンは展開がスクリプトから逸脱することを楽しみますが、その一方ではスクリプトに関係原理をかなり早い段階で自らに規定してしまう。SFという特定の関係原理が再現されていること、その安定感を無意識のうちに求めているのではないか。森下さんの説によれば、物語の展開がスクリプトから逸脱していることがSFやファンタジーの醍醐味でもあるんですが、SFファンはそのスクリプトと物語の原理基準の混乱が起こっているのではないか。もちろん、関係原理の安定性に快感を覚えるのは、僕たち人間の普遍的な心理だと思います。ただ、SFはスクリプトの逸脱性というわかりやすい特徴があるために、関係原理の安定性を自覚できないのではないか。 このボタンの掛け違いが、SFを理解できない原因ではないか。コンタクト・ジャパンへの違和感もこのあたりに原因がありそうです。僕がSFを読んでいると、ちゃんと納得させてほしいところが書かれていなかったり、些細なことがなぜかこだわりを持って書かれていたりと、バランスの悪さに戸惑うことがあります。SFファンは僕の小説に同じような戸惑いを感じるでしょう。どこを「スクリプトの逸脱」として許容するか、どこを「因果関係の原理」として重要視するか、その判断基準の違いなのです。これは先程もいったように、あくまで主観的な問題に起因するのですが、なぜかSFファンはこの基準をある程度共有しているように(外部から見ると)感じられる。だからSFでは主観的な評価が客観評価と同列になりやすい。SFの評価が外部からわかりにくい原因だと思います。 |
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